2015年2月22日日曜日

さいはてにて

今日は、前売り券を購入していた映画「さいはてにて」の先行上映会が珠洲で行われた日でした。
幼なじみ4人での映画鑑賞と*朱鷺探しツアーには参加出来ずに、布団の中の人だった夕方、友人が会場前の画像を持って来てくれました。
珠洲市のラポルトすずが会場です。
この映画は、珠洲市で焙煎珈琲店を始めた実在の女性をモデルに作られた作品で、3月に宿泊する木ノ浦ビレッジの近くの海岸沿いにロケのセット用のお店が建てられて撮影された作品です。
友人に感想を求めたところ、「うん、良かったわ!すんだら、皆、珈琲飲みたくなって『二三味珈琲』飲んできました!」
海の向こうにきれいに浮かぶ立山連峰
今日は、海の向こうの立山も綺麗に見えたそうです。
昔から立山が見えると、翌日は天気が悪くなると言われていましたが、それでもその神々しい山々の姿は、何度見ても引きつけられる美しさで心躍るものです。
友の優しさに感謝しながら、タミフルを飲んで、あと3日は家の中でじっと我慢の日が続くます。

能登半島の先っぽを「さいはて」と言うには、若干の違和感がありますが、急激に過疎が進む冬の海岸線を走ると、特に遠くから来た人には、そんな雰囲気を感じさせるのかもしれません。
映画が、「さいはて」の印象を払拭させて、能登へ人々を誘うようにと、友が記念にと渡してくれたチケットの半券を見ながら願いました。

*珠洲には朱鷺が時折やってくるという場所がありますが、今日はその姿は見られなかったそうです。

2015年2月17日火曜日

小屋の窓の外は・・・

冷え込む朝は、畑用の古い軽四のバッテリーがあがることが多くなりました。
ケーブルを繋いで、エンジンをかけて古い軽四のエンジンをかけます。
白峰では、-7℃と冷え込んだ朝。源八山荘のカメムシの味を覚えたシジュウカラが、泰然と雪の枝にとまっている画像が届きました。コロコロと丸くなりネクタイを締めて源八山荘へ狩りに出かける前の作戦を練っているのかもしれません。
源八山の主のシジュウカラ
白山市出身の作家・劇作家の本谷有希子氏の書評記事のコピーが送られてきました。

 年相応に成熟していくことが、今の日本人にウケていないのは確かなことのように思える。
 「なぜ若者の選挙離れが進むのか」と不思議がる人達は、きっと簡単なことを忘れているのだ。
 「気になるのは自分のことだけ」だった子供時代が、どんどん引き伸ばされている。
 私自身、自分への関心が薄れるまでに長く時間がかかった。
 自分という対象に見飽きた頃、ようやく自分の〈外側〉へ、本当の意味で意識が向いたのだ。
 それは、まるで生まれた時から閉じこもっていた小屋に、窓があると初めて気づいたような感じだった。
冷え込んだ朝、シワやえくぼが出来た雪面
『続・百年の愚行』と云う書籍を、小屋の窓の外に「戦争」が佇んでいることを教えてくれる。とありました。
今この時も、世界中で様々な戦闘があり、悲しむ人々がいます。
湾岸戦争の様子をテレビで見たとき、まるで映画の1シーンを見ているような不思議な気持ちになりました。9.11のアメリカ同時多発テロの映像もそうでした。ゴジラが高層ビルを壊すような、まるで実感のない作り物のように見えたのは何故だったのか。

気になるのは、小屋の中の世界だけとなっている自分がいます。
それでも、窓の外を見続けなくてはいけないのでしょう。
現実を知ること、自分の場所でできること、そして考えることが大切なのだと思います。


2015年2月14日土曜日

藤井肇展

寒波が入り込んだ日、2015藤井肇展に出かけました。
白山麓にいたから、雪に慣れているだろうと言われますが、能登の雪対策は白山麓の足元にも及ばす、雪道のドライブは必死の運転となりました。
大正末期に建築された民家を利用している石川国際交流サロン
石川県が開設し、公益財団法人石川県国際交流協会が管理運営している施設。
いつかどこかの会場で見た作品。
何に怒っているのか、悲しんでいるのか・・・今の世界???
たくさん転がっているのは、緑のお猿さんの様な作品たちです。
藤井さんに似たお猿さん発見!!
中庭を望む和室には、色とりどりの蛍光色で描かれた色紙の数々
空き缶やワインのコルク、空き瓶などで作られた造形作品。錆びて、ゆがんだ作品たちからは、藤井さんの怒りや力強さと共に、淋しさを感じてしまいます。
 
別人のような・・・利発な少年期の写真
幼少期、能登で暮らされたお話は、少し伺っていました。
田舎の子供達の思いを理解できる心があった肇少年は、その後、教育の道、政治の道を進まれたのでしょう。
 
能登への帰り道。白波が次から次へと押し寄せる海岸。
横風にハンドルを取られるのを必死に堪えながらの道すがら、今更ながら藤井さんの大きさを感じた時間。
世界中で、無駄な殺戮や残虐な映像が流されてしまう現在、怒る事をわすれてしまった人々への提言のように思っていました。

2015年2月12日木曜日

お寺探訪 参

法融寺の創建年を調べる過程で、インターネットで面白い記述を見つけました。
井上円了は、東洋大学の創立者で仏教哲学者、教育家です。

『能州巡回報告演説』 (明治33年9月出版)
能州巡回中の七不思議
(二)小木法融寺の蘭弗[ランプ](題して「不許蘭弗入山門」
(寺院の禁制は「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず・・・臭いにおいのする野菜と、酒は、修行の妨げになるので、寺の中に持ち込んではならないということ。を常とす。しかるに、法融寺は真宗なれば、葷酒の山門に入るを許す。その代わりに「不許蘭弗入山門」(ランプ山門に入るを許さず)の禁制ありて、山内一個のランプなし。これけだし、失火を恐るる故ならん)
     ・・・・・・
(四)馬渡浄楽寺の山門(浄楽寺山門なし。住職曰く、寺をへだつること数丁、本村に入る所、巨石深淵左右相対するの天険あり、これを浄楽寺の山門となすと。余曰く、浄楽寺は山門なきをもって山門となす。禅宗の無門関に似たり、よろしく法融寺の蘭弗と好対の奇となすべし。)
民家の屋根の上の鳥は・・・何サギでしょう。哲学者のようです。

井上円了は、眞宗大谷派寺院、淨楽寺と法融寺の山門の好対照を語っています。
山内一個のランプなし・・・坂を登って辿り着く高台の寺には、失火はなによりも怖いものだったのでしょう。
寺の歴史を紐解きながら、当時の地域が見えてくるようでした。

2015年2月11日水曜日

お寺探訪 弐

”小木様”  と呼ばれる眞宗大谷派寺院 磯越山法融寺。
創建年などを調べてみました。
寺伝によれば、
『享禄二年(1529年)本願寺八代目の蓮如上人の四男、加賀山田光教寺 蓮誓の子 顕誓が小木の海田浜に道場を建てて真宗の教えを布教したと伝えられる。(一説では、越前大町専修寺の顕誓)とあり、これを法融寺初代とする。』
顕誓は、蓮如の10男実悟とともに『蓮如言行禄』の著者として記録されています。
「享禄の錯乱」(享禄四年1531年)では、本願寺の加賀直接統治に反発して戦い破れ、越前に逃れて破門されたとあります。その後、天文十九年(1541年)許され、石山本願寺にはいり、本願寺一家の記録を『今古独語』『反古裏書』にまとめました。

加賀から布教に入った顕誓が、享禄二年に開いた道場が法融寺の始まりのようです。
第二代は、顕誓の子正順で、天正八年(1580年)に本願寺11世*顕如から「妙楽寺」の寺号を下付されます。そして、貞享元年(1684年)12月第六代栄正が寺号の改号を願い出て「法融寺」となりました。翌、貞享二年(1685年)1月10日 海田浜の地を離れて、現在地に寺を移転しました。
加賀で蓮如の子が覇権争いをしていた頃、能登半島の先っぽの漁村で始まった眞宗の布教。以来、480年余り、現在の住職は第十八代になります。

どこにでも歴史はあります。
名も無き庶民の思い・願い・営みが、時を経て今に続いているのだと思います。

*顕如上人は、織田信長との戦い(石山合戦)など戦乱の時代に生きた人で、
 その息子の教如上人は、「東本願寺創立の上人」。 (眞宗大谷派沿革) 

2015年2月8日日曜日

真脇遺跡縄文館

『能登町真脇の縄文時代の国指定史跡「真脇遺跡」から、縄文期の遺跡では全国で初めて見つかった「ほぞ」(柱材を組み合わせる突起)付き角材の特別展示が五日、遺跡近くの同町真脇遺跡縄文館で始まった。十一日まで。』

中日新聞の記事を見て、近くの真脇遺跡縄文館へ出かけました。
生憎の天気ですが、たくさんの来館者があるかもしれないと期待してでかけました。残念ながら、2台の車しか駐車しておらず、今日の10名ほどの来館者数を見ながら、名簿に記名し入館しました。 
ホゾ付き部材は、常設展示とは違う場所で、ケースに収められて展示されていました。
乾燥による劣化を防ぐ為に、水に浸されています。
ケースに顔を近づけて見つめれば、遙か3000年前の縄文人の手の跡がそこにありました。
小刀も斧もない時代に石器だけで、こんな細工が出来るのです。
必要は発明の母といいますけれど、日常の暮らしで必要にかられ工夫して、日々手業が積み重ねられてきたのでしょう。 
この先の発掘調査で、ホゾ穴の空いた部材が出てくるのかもしれません。そして、それは何に使われたのでしょう。係の方とそんな話をしながらも、想像の域を出ることのない遙か昔を思います。
お腹のポコンと突き出た女性の土偶は、顔の表情も身体もあまりにもデフォルメされていて、現代に生きる者には、不思議の世界の表現。用途を超えて芸術的な装飾を施された土器の数々。
何もかもわからない縄文時代への探検は、語り合っても尽きない時間でした。

遺跡の存在も希薄な雰囲気がありますが、地元の人達にこそ、「そこにあるモノ」に目を向けて知ってもらいたいと感じました。
地域を元気に出来る素材がそこにゴロリンと横たわっているのです。
そして、それは紛れもない私達の遠い昔の先祖たちが生きた痕跡なのですから・・・。

2015年2月4日水曜日

藤井肇先生を偲んで

昨年末、クリスマスの夜、金沢で藤井肇先生を偲ぶ会がありました。
雪の降る寒い日、たくさんの方々が藤井さんの作品が展示してある会場に集いました。

「何でこんな遠いところで開くのだ」と毎回、来訪者の方々からのクレームもありましたが、毎年作品展を開催して下さいました。白峰との縁は、遠く高校生だった頃、恩師の清水隆久先生との出作り調査から始まると写真を見せて下さいました。
日本海造形会議の作品展の開催や白峰出身の友人を介して、遠い白山麓の地との縁が続きました。
政治家としての藤井さんのエピソードも知る事が出来ました。肩書きを変えても、藤井さんは同じ。
弱い者の味方でした。広い見識と溢れる愛で、県政に爽やかな風を届けてくれたのだと思いました。

今日は、藤井さんの命日です。
「フランチェスカ藤井や」とおっしゃるので、「女の人のような名前ですね」と申し上げたら、
「そんな風に決めつけるもんじゃない」とお酒を召し上がりながら、言われた事がありました。
二日後の葬儀会場には、『故フランチェスコ藤井肇』 とありました。
「藤井さん、フランチェスコじゃない」と言いながら、「ちょっと間違えただけや」ともうお返事はないのだと思うと涙が止まりませんでした。

作品を目にする度に、短い期間ではありましたが、晩年の白峰での藤井さんが思い出されます。
お願いばかりです。天国から、迷ってばかりの子羊たちをどうぞ見守って下さい。

2月3日~15日まで、石川国際交流サロンで「2015藤井肇展 HAJIME FUJII EXHIBITION」
が開催されています。