2024年1月29日月曜日

山繭

暖かい午後、畑に出かけました。
ブロッコリーの脇芽を採り、避難している叔母の畑にも立ち寄ってから、
帰路、家の畑の向かいの急な道を登ってみることにしました。
急な細い道を登り切って行く先に、畑があったように記憶しています。
地震によるものか、木が倒れて道を塞いでいて、残念ながら、子供の頃の記憶にある畑までは行けませんでした。
帰り道で、葉っぱに包まれた山繭を見つけました。
良く見ると、繭は枝についている枯れ葉に包まれた状態です。
葉っぱを開いて見ようとすると、外れてきそうだったので、中止。
下方のアオキの葉っぱにも、もう一つ繭がありました。
こちらの方が、もう少し緑がかっています。
この繭も、ヤママユガの繭。良質の絹糸がとれるそうで、
一つの繭から約600~700m程度の絹糸がとれるそうです。
この山は、子供の頃、「ヒコジャマ」と呼んでた所。
3年ほど前、仕事先で、そこは「ヒコジヤマ」だと云うのを知りました。
呼び続ける内に、呼びやすいように変わっていったのかもしれません。
子供の頃以来の道は、記憶が曖昧で、こんなに狭い道だった?
こんなに急な道だった?

昔の人はすごかったと、帰り道、しみじみと思いました。 

2024年1月28日日曜日

1月1日からの日々 食事

1月1日の発災後、2日には姫地区の漁村センターで、10時と16時に炊き出しが始まりました。姫地区の婦人会の方々がボランティアされていました。
2日の16時には、近くの叔母と甥の分を含めて、3人分を鍋持参で貰いに行きました。
大きな熱々のおにぎりと暖かい汁を、2日の夕食にいただきました。
その後は、給水車から貰って来た水で、簡単な楽ちん料理です。
24日の昼食は、配給品のカップ麺です。
  山で食べる時と違って、味気なく感じてしまいますが、
蓋の裏のイラストに癒されます。悪そうな猫ちゃん、美味しいです♪
25日の昼食は、手作りパンとサラダパンです。
琵琶湖を旅した甥が持ち帰ってくれたサラダパン。
実は、サービスエリアでも買えます。半分こして、食べました。
中に挟まれているタクワンの漬物は、我家とは異なり、甘めのものでした。
タクワンを細かく刻んで、マヨネーズで和えたものが中に入っています。
湖北のソウルフーズで有名ですが、初めて口にしました。
電気が来たのは、5日の夕方。
2日から叔母宅の車を置いてるスペースで、簡易テーブルを作り、叔母・甥と3人で食事を共にし、ラジオで情報を得ていましたが、3日に迎えに来た車で、叔母は翌朝、金沢へ避難し、この日は1人で車庫スペースで食事の片付けをしていた時でした。
ひょっこり、覗いてくれた隣家のお父さんが「電気来たよ」と知らせてくれたのでした。
その嬉しそうな顔を見て、「良かったぁ」と口にする私の顔も嬉しさいっぱいだったはず♬

トイレの水は、裏手に流れてくる山水を、甥が工夫してバスタブに入れてくれたモノを使用しています。まだ浄化槽への地震の影響など未検査なので、使用済のペーパーなどは流さずに、可燃ゴミで出すようにしています。
様々な制限があり、改めて、電気、水の有難さを感じる日々が続きます。

2024年1月27日土曜日

1月1日からの日々 13日(土)

 毎日、令和6年能登半島地震の様子がテレビで放映されています。
京都や滋賀県の従兄達から、心配して電話が入ります。
断水はしてるし、少し戸が閉まりにくい所はあるけれど、1日の車中泊から戻ってからは、自宅で過ごしています。
 13日から、毎日、可燃ゴミ(生ごみ優先)の収集を行うと案内がありました。
正月前から溜まったゴミを漸く出す事が出来ます。
13日(土)、雨が雪に変わりました。
 13日早朝、ゴミステーションは、ゴミ袋でいっぱいになっていました。
午後、1日の発災時に、一緒に居た甥夫婦が、様々な物資を持って来てくれました。
これから葬儀があると、2人は早々に帰って行きました。
後日、テレビの放映を見て、彼の知り合いのご家族の笑顔の写真に、改めて今回の震災の甚大で理不尽な被害に悲しくなりました。

 20ℓ入りのポリタンクは、重くて運べないので、2ℓペットボトル5本を持って、高倉公民館前の給水場に向かいました。
海岸沿いの道は、ところどころ、割れ目などもあって、注意して低速で向かいます。
自衛隊の給水車から水を分けてもらうのですが、隊員の方が、満水となったペットボトルを入れた籠を車に入れてくれました。
漁村センターでも、ペットボトルの水の配布があると云うので、立ち寄りました。
2ℓ入りペットボトル6本/1箱が、1人分です。
各戸に家族の数分、配給があり、取り敢えず、これが最後となりました。
帰路、本家に立ち寄り、滋賀と京都の従兄からの電話の話など、久々にいろいろと長話をして、家に戻りました。

避難所に避難してる友達、金沢の娘の所に避難してる友達、又、一緒に他愛ない話を楽しめる日が、早く戻って来てくれるように願う日々です。

2024年1月24日水曜日

令和6年 辰年の始め

令和6年が明けました。
雪もなく穏やかな午前中、歩いて地域の神社にお詣りに行きました。
1月1日    姫地区の産土神社 諏訪神社
初詣から戻り、昼食を済ませて、去年と同じような新年のテレビを見ながら、のんびりしていると、甥夫婦が年始の挨拶に来てくれました。
いつものように、先ず、仏壇にお詣りしてくれます。
皆で、日本各地の一の宮参りの話で盛り上がり、古事記関係の本を持って来て話していたら、最初の揺れが来ました。
甥のお嫁ちゃんがすぐにストーブを消してくれました。
いつものように、これで終わるかなと思ってたら、次に今までに経験のない大きな揺れが来ました。立っているのも大変な揺れです。

急いで外に出て、甥夫婦は家に戻り、私達は車で高台へで上がりました。
津波警報が発令され、集落から上がって来た皆で、ずっと海を見つめました。
若干の潮の満ち引きが見られましたが、その日は夜になっても警報の解除はなく、道路に駐車した車の中で、車中泊となりました。
夜半、外に出て見上げた夜空は、夕刻の物凄い揺れは夢だったかと思うほどの綺麗な星空でした。
左手上空にオリオンが広がっています。一緒にいた輪島から来ていた女性と見上げた夜空、
輝くオリオン座・・・いつもと変わらぬ、いつにも増して見事な美しさでした。
近くの石切り場跡
1月8日、何も変わらぬ雪景色。雪を纏った枝に鳶がとまっていました。
給水場所に行くと、給水車は浄水場へ補充に向かっていて残念ながら空戻り。
しかし、その日は、なんと甥が簡易シャワーを準備してくれて、
8日振りに髪を洗う事が出来ました。感謝!
1月9日  叔母の畑のブロッコリーを貰って来ました。
畑への道沿いの崖側に黄色い菊が咲いていました。
1日に起きた災厄など関係ない日常が、ここにありました。
1月11日 午後の海
支援品配布のお手伝いを少しして、外に出るときれいな雪山が見えました。 
海の向こうに山並みが見えた翌日は、天気が崩れると言われています。
能登各地に、若干違いはありますが、同様の言い伝えがあります。
1月11日、自衛隊提供のお風呂です。
初めて訪ねたお風呂には、たくさんの人が待っておられました。
チャバチャバと急いで洗って、久方振りの湯舟につかりました。
暖かいお風呂、感謝!感謝! でした。
大きな地震が来てから二週間余り。
落ち着いたかと思えば、余震があり、次が来るのではないかと夜は不安が先立ちます。
電気が通った時の喜びと、断水で感じる水の有難さ・・・
様々な配給品や給水車からの水をいただき、工夫していかねばと肝に命じる日々です。

「ばあちゃんから、水道のない頃の話を聞いたことある」と甥が言いました。
歴史資料館の展示にあるような、大きな水甕に溜めた水を使う。
そんな時代が少し前までありました。
身近にあったモノが戻ってきた時の嬉しさを忘れずに、
友と自然の中を歩ける日を思いながら過ごす日々が、もうしばらく続きます。

※記し始めてから、10日ほど経ってしまいした。ご心配いただきありがとうございました。