2014年12月18日木曜日

お寺探訪 壱

夏の終わり、門徒寺の小木法融寺の石垣を撮影する為に出かけました。
見事な小木石や境内を撮影中に見つけたのは、御影石の手水鉢。
享保十年 巳六月十九日 の刻印のある御影石の手水鉢
享保十年は、1725年乙巳年
摂津國御影と大きく刻印のある四角い手水・・・。雨水受け・・・。
御院主さまは、
寄進時期と寄進者については不明だが、小木の港は北前船の寄港地であり、各地の人々の参詣がありました。それによって運ばれたものであると考えられます。
源八山荘主は、
神戸市六甲山麓御影地方で採掘されたもので、摂津国御影は産地名のようです。
御影地方は、古来、花崗岩産地として有名で、花崗岩を御影石と呼ぶのはこの事によるそうです。現在石屋さんに並ぶ花崗岩の殆どが輸入品で、御影地方産のものは他と区別して本御影と呼ぶそうです。この雨水受けは江戸中期の小木港の賑わいの証人ともいえるものです。
以前、西山先生西山郷史氏 加能民俗の会副会長に奥能登を案内して頂いたときに感じた、江戸期以前の能登の繁盛ぶりをこの寺にも感じることが出来ます。」                                
因みに幕末、この地を測量の為訪れた伊能忠敬の日記によりますと、
加州領同郡小木村 湊にて町と号、本町 新町 猟師町 塩崎町四ヶ所ニ分ル、明日の分を少し仕越、八ツ半後小木新町着、止宿徳兵衛サツマヤ、此夜中晴測量、此所家二百餘軒ありと云
その頃の宇出津は、五百餘軒と記されています。伊能忠敬は、晴れた夜、星を目印に測量したそうです。

今は、漁業も下降気味で町の賑わいも最盛期を知る者には寂しいものとなりました。
しかし、手水鉢からは、江戸中期の小木の町の賑わいが目に浮かぶようです。
お寺探訪は、地域探訪、地域再発見の一途となりそうです。

2014年12月17日水曜日

報恩講のお参り

先月の下旬、お寺の報恩講のお参りがありました。最終日とその前日には、和服を着た小木地区の女性達がお経を唱えると耳にしました。お昼には、お講の料理もいただけます。
天気も良かったので出かける事にしました。
お堂の正面には、幕が張られ、五色の幕が周囲に張られていました。
五正色幕(ごせいじきまく)・五間色幕(ごけんじきまく)と云うそうで、
中国から伝わった陰陽五行説が由来のようです。
女性陣は、皆、黒の絵羽織を着用されています。
揃いの輪袈裟をつけて、お経を唱えます。
お講の料理は、煮染めとなます、それに白菜のゴマ和えでした。
お汁は、白菜、豆腐、小豆の入ったいとこ汁です。
報恩講は、宗祖の恩に報いる為の大切なお寺の行事です。
初めてのお参りで、荘厳な小木地区声明会の方々のお経を聞き、毎朝耳にする母のお経とは違うイントネーションのこれが本家本元といった雰囲気の中、信仰心について考えていました。
白峰行勧寺での勉強会の事、毎年続けた報恩講料理のプログラム・・・
しみじみと美味しい料理もいただいて、二日間のお参りが終わりました。

今月に入り、先週末には仏壇の磨きもの初体験。全てが若葉マークの年の瀬です。



2014年12月2日火曜日

初冬の便り

   先日、白山高山植物研究会の元会長清水建美先生が亡くなられました。
最後に白峰にお見えになったのは3年前でしょうか。車に乗り込まれた先生のご様子は勿論、お送りする人達の恩師を送る生徒のような姿が、とても印象的な秋の日でした。
ずっと昔、白峰の南番の川沿いに育苗の為のテントがありました。1日だけお手伝いに伺った時がありました。「この仕事を手伝って下さる人たちが必要です」とおっしゃられた穏やかな表情が思い出されます。
地球緑化センターから来ていた女の子と役場の職員の3人でチブリ尾根を下山すると聞いていた日、随分と到着が遅れて心配した事もありました。
折に触れその偉大さを感じてきた縁の人々は、これからも、今まで以上に、日々その思いを深め、先生の示された道を辿ることになるのでしょう。

白山麓の初冬の彩り。
遠い昔の思い出とともに、静かな時が流れているようです。