幹周りの太さにびっくり。 下見に行く木ノ浦の椿との偶然を感じてしまいました。 |
六体の地蔵と六体の観音像が安置されている大門地蔵堂 お堂の額には、夫婦と思われる寄進者の名前が書かれていました。 |
階段横の石に弥勒院と刻まれています。 |
横の説明看板に目をやると、旧内浦町文化財の梵鐘だと記載されています。 |
庭を掃除されていた奥様に、椿の樹齢を伺いました。奥様が声をかけられ出てこられた住職さんと椿の樹齢や宮崎寒雉作の梵鐘の事などを伺っている内に、寺内に案内してもらうことになりました。
本堂の本尊の後ろで、立ち並ぶ古い位牌や木像、梵鐘作りに尽力した木喰上人(有名な上人と同じ名前ですが、村の人)が即身成仏となられた話や寺の由来などを伺いました。
寺前の椿のある道は、拡幅工事が行われ、その工事中にたくさんの珠洲焼きの骨壺が出たそうです。珠洲焼きの骨壺が出たと言うだけで、長い寺の由緒が感じられました。
本堂のいろいろな仏具や軸の話も伺い、気づいたら1時間。何度もお礼を言って寺をあとにしました。
木ノ浦のコース確認が心配でしたが、とっても面白い時間をいただきました。
話の中で、以前、石川県立歴史博物館で開催された「若山荘を歩く」「能登 仏像紀行」のいずれかで紹介されているようでした。家に戻り調べてみました。
医王山弥勒院は、天正2年(1574)に矢波の弥勒寺住職が入寺して再興し、天台から真言に改めたといいます。 江戸時代、鎮守五社権現の他、宮犬地内の神社(現在、八王子神社に合祀)を支配していました。
今回、拝観した木像弥勒菩薩座像は、ぽこっとはずすと「弥勒菩薩 若山荘」と記してありました。
図録には、室町時代の木像とありました。
古い由緒ある寺を維持するには、集落の人口の減少もあり、とても難しい時代となったことは、話を伺いながら感じられました。文化遺産は、有形のものだけではなく、語られていく無形のものにも存在します。「文化はお金にならない」と云う言葉を耳にした事もありましたが、無くなってしまわないうちに保存していく事が、未来への義務なのではないかと感じました。そして、その存在の意味を広く地域に発信していくことも・・・
財政難の小さな自治体の文化行政のあり方が試されているのではないでしょうか。
そんな事を感じた出会いでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿